新しい文学が生まれる都市 名古屋【その1】
大正から昭和にかけての名古屋は、文化の最先端を走るモダン都市であった。優れた才能が育くまれ、また全国からも作家が集まり、いくつもの新しい文学を生み出した。
<大正の大衆小説家と詩人たち>
近代文学を開いた逍遥・四迷に続く名古屋生まれの大正時代の作家には渡辺霞亭(わたなべかてい 1864〜1926)がいる。霞亭は、東区主税町に生まれたが、千本を超えるという作品は大阪で書いた。同時に十本の作品を各紙に連載したほどの多作で、今日の流行作家の先駆者と言われている。代表作には家庭小説「渦巻」がある。
大正から昭和初にかけての名古屋はモダンな成長都市で、文化的にも時代の最先端を走っていた。特に、詩の分野での活躍は目覚ましく、伝説的な同人詩誌「青騎士」が大正11年に白壁町界隈を活動拠点にしていた井口蕉花(1894〜1924)、春山行夫(1902〜1994)、佐藤一英らにより発刊された。
「青騎士」は井口蕉花(いぐちしょうか)の夭逝と共に終刊したが、その後、春山行夫は東京で昭和3年、北川冬彦・三好達治らと「詩と詩論」を創刊し、全国的にも名が知られるようになった。
佐藤一英(さとういちえい 1899〜1979)は大正11年、同人詩誌「楽園」を金子光晴・サトウハチローらと創刊し、昭和14年には聯詩(れんし)という形式による詩集『空海頌』(うみそらのたたえ)を発表。
金子光晴(1895〜1975)は、津島市生まれだが2歳から5歳までは名古屋で暮らした。大正12年関東大震災により一時帰名。作家の牧野吉晴宅(東区清水口あたり)に滞在し『水の流浪(みずのるろう)』収録の詩を書いたという。
<推理・探偵・伝奇小説発祥の地>
推理・探偵・伝奇小説の分野では「乱歩の前に乱歩無く、乱歩の後に乱歩無し」と言われるほど、江戸川乱歩の存在は巨大である。しかし、
大正12年当時まだ無名だった乱歩の「二銭銅貨」を高く評価し、乱歩のデビューに貢献したのが、名古屋市昭和区に居を構えていた医学博士小酒井不木(こざかいふぼく 1890〜1929)だった。作家としては、鶴舞公園が登場する「疑問の黒枠」などの作品を残した。
江戸川乱歩(1894〜1965)は三重県名張市に生まれたものの、4歳の時には父親の名古屋商業会議所(現名古屋商工会議所の前身)への就職に伴って名古屋に移り住み、愛知第五中(現瑞陵高校)を卒業する18歳まで育っている。成長期を名古屋で過ごした乱歩はほとんど名古屋人と言っても良いだろう。デビュー後の華々しい活躍は周知の通りで「心理試験」「屋根裏の散歩者」「怪人二十面相」シリーズなど多数作品がある。
そして、もう一人忘れてはならないのは、伝奇小説作家国枝史郎(くにえだしろう 1887〜1943)である。生まれは長野県茅野市だが、作家としての絶頂期である大正12年から昭和4年まで、名古屋に在住した。大正14年に書かれた「神州纐纈城」(しんしゅうこうけつじょう)を三島由紀夫は「奔放な想像力と幻想美、美しい文章と現代性は谷崎潤一郎の伝奇小説を凌ぐ」と絶賛した。
このように大正期の名古屋において、三人の天才的作家によって、日本の推理・探偵・伝奇小説の伝統が築かれた。
<新しい文学運動の疾駆>
名古屋はしばしば新しい文学運動が起こる地でもある。
プロレタリア文学の代表的作家として知られる葉山嘉樹(1894〜1945)は福岡県生まれだが、名古屋で新聞記者をしながら労働争議を指導していた大正12年、名古屋共産党事件で検挙・名古屋刑務所千種未決監に収監された。「海に生くる人々」は、その獄中で自己の労働運動体験に基づいて書かれた。
久野豊彦(1896〜1971)は、東区白壁町で育った。同人雑誌「葡萄園」に実験的な作品を発表し、横光利一と並ぶ「新感覚的表現」として川端康成に評価された。昭和5年短編集『ボール紙の皇帝万歳』等を刊行。評論集『新芸術とダグラスイズム』では「新社会派文学」を提唱。昭和の初期、確かに久野は日本文学のトップランナーの一人であった。
富沢有為男(とみざわういお 1902〜1970)は大分県に生まれたが、父親が東海中学の教師になったため東区白壁町あたりに転居。昭和12年『地中海』で第4回芥川賞を受賞。昭和14年には『人生劇場』で知られる尾崎士郎・牧野吉晴らと共に雑誌「文芸日本」を創刊した。なお、牧野吉晴(1904〜1957)もまた東区橦木町生まれで、空手などの青春スポーツ小説を得意とする人気作家であった。
女流作家も名古屋から育った。矢田津世子(やだつせこ 1907〜1944)は秋田県に生まれたが次兄が名古屋で勤めたため一緒に来名し、昭和2年から6年まで在住した。その間に「罠を飛び越える女」で文壇にデビュー。昭和11年には小説集『神楽坂』が第3回芥川賞候補となった。