日本の近代文学は名古屋から始まった【その1】
明治十年代に日本の近代文学の扉を開いた坪内逍遥と二葉亭四迷は共に尾張藩の出身。 名古屋にゆかりの深いこの二人の活躍によって新時代の文学の方向は定まり、日本の近代文学は名古屋から始まった。
<坪内逍遥>
坪内逍遥(本名勇蔵)は、尾張藩代官所役宅で、代官所付手代、父・坪内平右衛門信之、母・ミチの子として、安政六年(1859)、現在の岐阜県美濃加茂市に生まれた。
明治2年(1869 10歳)、家族と共に名古屋市上笹島村に移住。城下巾下の寺子屋に通った後、私立白水学校にて漢籍を学んだ。
明治5年(1872 13歳)に、名古屋県英語学校(通称洋学校)に入学、本科で英語を学んだ。この頃より、市川団蔵一座、中村宗十郎一座等の歌舞伎に親しむ。
明治8年(1875 16歳)、愛知英語学校(名古屋県英語学校から改称)の米国人教師レーザムからシェークスピアの講義を聞き、またエロキューション(朗読)の教授を受けた。
明治9年(1876 17歳)、開成学校普通科(東京大学の前身)に入学のため上京。
明治18年(1885)、小説『当世書生気質』を発表。学生寮、牛鍋屋など明治になって生まれた場を中心に、大学生の奔放な生活や人情を軽妙なタッチで書き、これまで漢文や漢詩・和歌・俳句などの伝統を踏まえた勧善懲悪的な戯作読本しか無かった日本の文学を刷新した。続く評論『小説神髄』では、単に娯楽としてではない文学独自の価値である人間の心理を描き、人間の生き方を問う近代小説のあり方を示した。この年、逍遥はまだ26歳。
その後の活躍はよく知られている通りである。東京専門学校(早稲田大学の前身)で教鞭を取るかたわら、雑誌「早稲田文学」を創刊。今日まで山脈のように連なる多くの作家を生み出す源流となった。
また、近代演劇の祖シェークスピアやイプセンを研究することで、演劇の革新を開始。島村抱月らと共に「文芸協会演劇練習所」(明治42年)を設立し、新時代の演劇づくりを目ざして、新しい風を送り続けた。そして晩年には、心血を注いで『シェークスピア全集全四〇巻』を完訳し、昭和10年(1935)76歳で永眠。
このように明治から昭和にかけて、文学と演劇の近代化の両面で、巨大な業績を残した逍遥だが、逍遥の文学と演劇に対する情熱は、多感な少年時代を過ごした名古屋で培われた。逍遥の母方の祖父は、名古屋市大曽根で酒造業を営むかたわら、当地では知られた俳人で通っていた。逍遥の母ミチはその娘であり、文芸の才能、芸事好きの資質は母から多分に受け継いだと思われる。
10歳で名古屋に来た逍遥は、寺子屋で古典・漢文の素養を身に付ける一方、母に連れられて、方々の芝居を見に行き、歌舞伎の魅力を知ることになった。13歳より現在の大津橋あたりにあった洋学校に通うが、毎日歩くその途上に日本一の「貸本屋大惣」があった。逍遥は米国人教師が身振り手振り付きで、朗々と読み上げるシェークスピアのセリフを日々聞きながら、大惣から千冊を越える本を借りて読み漁り、特に滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』に心酔した。こうして見ると、文学で言えば漢文から英語まで、演劇で言えば歌舞伎からシェークピアまでを、十代の感受性豊かな時期に同時に名古屋で吸収したことが、逍遥を近代文学と近代演劇の祖にした理由ではないかと思われる。
そういう意味で、逍遥の才能を育てたのは、名古屋の文化的・教育的風土であったと言って過言ではないだろう。
【逍遥と堀河(堀川)】
「・・堀河の花見といふと、江戸の向島のそれ扱ひ、私が十一、二から十四五頃までは、折々父母と共に屋形船なぞに乗って、見に行ったのを思い出す。また沙魚釣りが父の年中行事の一つであったので、年に少なくとも二度以上、同じくその河を、・・家族一同が暗いうちから家を出て、多勢の時は近親、縁者、出入りの者を合わせて、二艘仕立てで、昼夜の支度をして・・船で下ったのを思い出す。・・」
(『私の寺子屋時代』より)
堀川は、逍遥にとって生涯思い出の川であった。